[ 考察 ] 大越愛子著『フェミニズム入門』(ちくま新書)を読んでの若干の考察


 

男女雇用機会均等法が制定された翌年に学部のほとんどが女子学生の大学に進学し、その後の職場も女性職場に進んだからか、昔から、フェミニズムには興味があった。

この本も購入して、少しだけ読んで積ん読本にしていたのを、近年のフェミニズム運動の高まりを受けて、久方振りに読んでみた。

尚、学生時代、男子学生ばかりの工学部の友人に随分羨ましがられたが、要はバランスもあり、理系の女子は気が強く、「わたし、高校で一番だったのよ。」てな感じで、ブリブリ言わされ、実験の汚れ仕事なんかも否応なくやらされてしまう肩の狭い学生時代を送らされたのであった(^_^;

その辺は、一見腰の低そうに見える文化系学生や他職種の同業者とは、かなり違うのであった。

フェミニズム入門 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)

男性の、男性による、男性のための思想体系がいかに虚構と欺瞞にみちているか。
フェミニズムの問題提起によってなんとあっけなく揺さぶられるものにすぎないか。





近代主義から近代批判、イリガライやクリステヴァなどのポスト・モダンに至るまでのフェミニズム思想の破壊力の変遷をたどりつつ、さらにリプロダクション、性暴力、国家と性など最も現代的なテーマに果敢に挑戦する。

現代の生と性の意味を問いなおす女と男のための痛快なフェミニズム思想入門。

目次

第1章 フェミニズムの快楽
第2章 フェミニズムの潮流
第3章 日本のフェミニズムの展開
第4章 フェミニズムの理論的挑戦

【考察】

最新の一般的読み物としてのフェミニズムの本が存在しない。

著者・大越愛子は、第1章のフェミニズムの快楽において「フェミニズムとは、男性中心の文化や社会の虚構性を暴き、人類の起源まで見据えて、人類の文化全体をその成立基盤から照射し、文化的存在としての人間の根源的な秘密を開示する。」という。

知的好奇心がわくわくさせられるではないか。
が、最後まで読んでみた結果、そういう可能性もあるが、少なくとも、この本が執筆された96年時点では、そういうダイナミズムを感じさせる研究結果は、いまだないようだ。

この本は、1996年に発刊されたものである。
なので、その後の展開も気になり、Amazonで検索してみた。
試しに、Amazon で「フェミニズム入門」と検索してみよう。この本が現時点では1番最初に出て来る。
では、普通の人がよく読む「フェミニズム 新書」で検索してみよう。
現時点では、この本が2番目に現れ、辿って行っても、フェミニズム入門として読めるような本は、ほとんど無い。
著者・大越愛子が「日常的、理論的実践」と言う、比較的新しい、そして身近であるはずの学問のフェミニズムであるが、そういう実態である。

当然であるが、この本では、激しく移り変わるフェミニズムの潮流を90年代まで紹介しているが、その後のフェミニズムの動向が気になるではないか?
そういう者は、少し敷居の高い、「現代思想 2020年3月臨時増刊号 総特集◎フェミニズムの現在 」まで手を伸ばせばならないのだろうか。

再び、フェミニズム運動に注目が集まる。

昨今、#MeTooや#KuToo、そして性暴力に抗議するフラワーデモや国会議員に女性議員の比率、女性活躍推進の政策により、再びフェミニズムに注目が集まっている。
大学入学の前年に、男女雇用機会均等法が施行された身にとれば、35年経過しているのに、いまだにという感もあるし、圧倒的な女性数により、職場も大学もどちらかというと女性本位的な場に身を置いていた者としては、未だに男性優位社会というのは、信じ難いという感もある。

TVで取り上げられる事も多く、「日常的実践」であるから、啓蒙が非常に重要であると思われるにも関わらず、先に見たのが現状である。
従って、SNSにしろ、TVにしろ、理論的背景無しに、各々が思い描くフェミニズムという名において、議論を展開しているように思われる。

各章の内容紹介





そんな中、非常に激しい動きを見せるフェミニズムなので、1996年発刊というのは致命的な気がしない訳でもないが、入門書としては本書は、よくできているのではなかろうか。

第1章 フェミニズムの快楽においては、「フェミニズムとは」や「フェミニズムと男性」が語られる。

第2章 フェミニズムの潮流では、フェミニズムというくくりの中に存在する、マルクス主義フェミニズムや精神分析派フェミニズム、エコロジカル・フェミニズムなどのそれぞれの流派の問題意識や理論が紹介されている。
フェミニズムとは、実践する社会運動であるからか、新左翼顔負けの分派が存在する。
これを読むと、世界のフェミニズムとは、単に女性の権利のみを声高に訴えている訳ではない事がわかる。

第3章 日本のフェミニズムの展開において、明治期の婦人運動から90年代のフェミニズムが概観されている。
これを読むと、日本のフェミニズムは、世界の潮流から外れた、ガラパゴス化された中で進んでいる事が理解できる。

第4章 フェミニズムの理論的挑戦においては、家父長制、ジェンダーなどのフェミニズムの基本理念や「性暴力の政治学」「資本主義と女性搾取」「フェミニズム批評」など、現代フェミニズムのキイワードが説明されいる。

お喋りの延長としてしか感じられない日本のフェミニズム

日本のフェミニズムが、お喋りの延長としてしか感じないのは、1990年代から、代表的フェミニストが、上野千鶴子のままであり、マルクス主義フェミニストでありながら、資本制や社会に隠された構造的搾取とか構造的無意識に矛先が向かわず、記号論を弄んで、表層的な事柄ばかりを追求しているからのように思える。

また、彼女らが、仮想敵として、「専業主婦」を置き、その専業主婦の生き方を否定するような物言いから、フェミニズムという身近な問題において、支持を得られず、大きなうねりとならない原因のように思われる。
そして、理論の支柱が、そのようなものであるから、単なるお喋り、思いつきの域を出ないのではなかろうか。

権威主義的な日本のフェミニストたち

また、家父長制をターゲットとしながら、表舞台に現れるフェミニストらの「私だけが真理を理解している。」「私の意見が絶対的に正しい。」みたいな上から目線の権威主義的な装いに閉口する。
支持を広げられないのは、この辺りにもあるのではなかろうか?
田原総一朗みたいな権威主義的なオーラを醸し出しながら、自身をフェミニストと定義するのは、お笑いだが。





さすがに、世界のフェミニズムにおいては、資本主義に搾取される女性労働は取り上げられているが、現在の日本にも、家計の補助的立場という境遇の名の下に、低く抑えられているパート労働者らの賃金や離婚後、元夫が、養育費を払わなくなり、貧困に陥るシングルマザーなど、女性故に追いつめられた境遇に陥る理不尽な問題が存在するのだが。

また、新自由主義の名の下、緊縮財政により、福祉が削られると、そのケアという労働は、概ね日本の場合、女性の肩に掛かってくるのであるが、社会に発言ができる、特権的な日本のフェミニストたちには、それが見えないようである。

日本の現実のフェミニストにはうんざりだが、学問としてのフェミニズムには大いに興味が沸き、可能性を感じるのは間違いない。

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