[ 内容紹介 ] 佐伯啓思著『経済学の思考法』ー非常に有意義な読書体験ー


 

新刊.net で毎朝、送られてくるメールの中に、本書の案内があった。

丁度、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」 (集英社新書)』を読んだ後だったので、資本主義後の世界にとても興味を持っていた。
サイトで内容を読むと僕の興味と合致したので、早速、購入し読んでみた。

経済学の思考法 稀少性の経済から過剰性の経済へ (講談社学術文庫)

格差拡大、雇用不安、デフレ、グローバリズムの停滞……。
「構造改革」以降、実感なき好景気と乱高下する日本経済。過剰な貨幣発行がもたらす問題、「複雑な”経済現象”」と「理論重視の”経済学”」の乖離など、現代資本主義が直面する困難を徹底的に検証。
アダム・スミスから金融理論、リーマンショックからアベノミクスまで、経済学の限界と誤謬を提示する。

内容抜粋

「経済学」がひとつの思想でありイデオロギーであるとすれば、今日の支配的な経済学の考え方とは異なった「経済」についての見方はできないか。

「稀少な資源の配分をめぐる科学」というような経済学の典型的な思考方法ではない、別の思考様式はないのか、ということだ。

―――学術文庫版「はじめに」より

2012年刊行、講談社現代新書『経済学の犯罪』を改題、
大幅加筆修正したものです

内容(「BOOK」データベースより)





格差拡大、雇用不安、デフレ、グローバリズムの停滞…。
「構造改革」以降、実感なき好景気と乱高下する日本経済。

過剰な貨幣発行がもたらす問題、「複雑な“経済現象”」と「理論重視の“経済学”」の乖離など、現代資本主義が直面する数々の困難を、徹底的に検証。
アダム・スミスからリーマン・ショック、アベノミクスまで、経済学の限界と誤謬を提示する。

著者について

佐伯 啓思 (さえきけいし)

1949年、奈良県生まれ。
東京大学経済学部卒業。
同大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。
京都大学名誉教授。京都大学 こころの未来研究センター特任教授。

著書に『隠された思考』『「アメリカニズム」の終焉』『現代日本のリベラリズム』『反・幸福論』『「欲望」と資本主義』『自由とは何か』『西田幾多郎 無私の思想と日本人』『経済成長主義への訣別』『近代の虚妄』など多数。

目次

学術文庫版「はじめに」
第1章 失われた二〇年――構造改革はなぜ失敗したのか
学術文庫付論
第2章 グローバル資本主義の危機――リーマン・ショックからEU危機へ
学術文庫付論
第3章 変容する資本主義――リスクを管理できない金融経済
第4章 「経済学」の犯罪――グローバル危機をもたらした市場中心主義
第5章 アダム・スミスを再考する――市場主義の源流にあるもの
第6章 「国力」をめぐる経済学の争い――金融グローバリズムをめぐって
第7章 ケインズ経済学の真の意味――「貨幣」の経済学へ向けて
第8章 「貨幣」という過剰なるもの――「稀少性」の経済から「過剰性」の経済へ
第9章 「脱成長主義」へ向けて――現代文明の転換の試み
あとがき――ひとつの回想
学術文庫版あとがき

内容紹介

経済学が経済を扱うには、経済現象は複雑過ぎる。

著者・佐伯啓思氏は、経済学が経済を扱うには、経済現象は複雑過ぎると言い、経済学が扱っているものは、経済学が『経済』と定義しているものに過ぎないという。
また、経済学が政治に介入し、経済現象を分析するべき学問である経済学が、経済現象つまり現実を形作っているとも。

『経済学の思考法』というタイトルだけあって、経済学の哲学面、考え方に重きを置いている。

第1章 失われた二〇年――構造改革はなぜ失敗したのか
学術文庫付論

第1章の『失われた20年』において著者は、この間の経済成長は、リストラなどによる労働コストの削減による企業業績の回復によるものであり、この間の構造改革は、新自由主義の論理により、供給側ばかりに焦点が当たり、需要側に焦点が当たっていなかったと説明する。

雇用調整で1企業の効率性を高め、人件費を削り、業績を良くしても、失業者や賃金の低下を招けば、需要は伸びず、GDPを押し上げる効果をもたらさないと。

著者のこの説明により、結局、トリクルダウン理論は機能しなかったし、景気がいいと言いつつ、一般庶民にその景気感を実感できない理由が、やっと理解できた。

第4章 「経済学」の犯罪――グローバル危機をもたらした市場中心主義





第4章において、1930年代の世界大不況の後、ケインズ経済学が、1970年代の世界経済の混乱の後には、シカゴ学派を中心とする市場競争中心の経済学が勃興したが、第3の危機である2008年の世界金融危機後には、それに対応する経済学が存在しないという。

第7章 ケインズ経済学の真の意味――「貨幣」の経済学へ向けて

そして、第7章において、金融市場が発展すれば、金融市場の内部でお金が回り、実体経済での投資へは向かわないという。
そして、実体経済から金融経済への資本の移動を食い止める自動調整メカニズムが作動しないため、不況の長期化が起こるという。

そして、今日の先進国には、もはや高度な経済成長は不可能であると述べる。

ケインズが経済活動においての時間を重視したように、以前はそうよく説明されていたものだが、著者の言うように、将来の期待値により、企業や家計は、ストックしたり、投資するものだと思う。
つまり、将来への不安が大きいと人々は、貯蓄傾向を示し、企業は、投資したがらない。
新自由主義が席巻した事により、以前よく聞かれた、この説明が、いつの間にか聞かれなくなった。

そして、経済学とは、希少性をめぐる学問とされるが、著者は『欲望』は、過剰性により生み出され、財貨を『希少』化させると主張する。
人は本当には、「何故、ブランド物が欲しいか。」を理解していない。
他者が欲するから、私も欲するというような模倣的競争によって、ブランド物を欲する。
人間の象徴作用から「過剰性」が生み出され、その過剰性が模倣的競争を生む。
模倣的競争を勝ち抜くには、「貨幣」が必要とされる。
高価なブランド物は、誰でも買えるわけではないので、大きな「貨幣」が必要とされる。
なので、まずはじめに稀少なものが存在するのではなく、相互模倣の欲望により社会的価値が形成された後に、「希少性」が生み出されるという。

第9章 「脱成長主義」へ向けて――現代文明の転換の試み

第9章の「脱成長主義」へ向けてにおいて、佐伯啓思氏は、1970年代後半に存在した2つの可能性、新自由主義とベルが主張していた公共的計画を重視する「ポスト工業社会」の構想を提示し、後者の可能性はなかったのかと想像する。

著者は、大事なのは、将来の社会像を構想する力であって、決して、人間が経済学の奴隷になってはいけないと結論付ける。

さいごに

非常に有意義な読書体験であり、得るものが大変大きかった。
同時に、この本を読んだ事により、新自由主義は、結局、経済的に何ももたらさず、非正規雇用など不安定な雇用により、労働者を窮地に追いやったのみであったと結論づけることができました。

啓蒙の時代と言われる時に、「国家とは。」「社会とは。」「人権とは。」「民主主義とは。」などが論じられ、多数の著作が刊行された。

ポストモダンと言われる頃から、それらの耐久年度が過ぎつつあると言われていました。





多くの論者が、資本主義の歪みを嘆き、資本主義は終焉を迎えようとしていると何人かは言います。
が、脱経済成長を唱えるも、来るべき社会がどのような社会になるかを、具体的に、いまだイメージ、構想できていません。

したがって、啓蒙の第2の時代が来なければ、我々は、矛盾を感じながらも、現状に従って生きていかねばならないのかも知れません。

人類の歴史は、そう簡単に終わらなさそうですが、気候変動の問題は待ったなしです。
著者・佐伯啓思氏の言うように、将来の社会像を構築する想像力と創造力が大事です。
気候変動というタイムリミットがある中、その創造力を一部の知識人頼みにするのではなく、私達一人一人が考えねばならないのかも知れません。

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