[ 書評 ] オルテガ 『 大衆の反逆』まさに、SNS時代の今の時代を指しているよう。

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現在、政治を中心に、Twitterを含む、SNSにアグレッシブに、殆どジャンクな意見や暴言が飛び交っている。
僕ら、バブル時代に学生時代を送った者には隔世の感がある。
なぜなら、僕らバブル世代の者にとって、「政治を語る者」というのは、ダサくて冴えない人だったからである。
あまりにも、政治に距離を置いていたために、天安門事件への学内での留学生のデモに、身の置き所のない恥ずかしさを感じたのを覚えている。

僕は、兵庫県に住んでいるのだが、僕の30歳の頃は、繁華街の三宮のにしむら珈琲店で一服していると、品のいい高齢の人らが文化の話を交えて、政治の話を上品にしているのを耳にしていた。
人が居る場所、公共の空間での政治の話とは、そういうものだった。

が、時代が変わり、政治や「表現の自由」など大文字を語るプレイヤーが変わってしまったようだ。
しかし、それも、ここ5年くらいの話だと思う。
いわゆる大衆化である。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

1930年刊行の大衆社会論の嚆矢。
20世紀は、「何世紀にもわたる不断の発展の末に現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるかのように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。

こうして、「生の増大」と「時代の高さ」のなかから『大衆』が誕生する。
諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。

オルテガはこの『大衆』に『真の貴族』を対置する。「生・理性」の哲学によってみちびかれた、予言と警世の書。

目次





第1部 大衆の反逆
(充満の事実、歴史的水準の向上、時代の高さ ほか)

第2部 世界を支配しているのは誰か
(世界を支配しているのは誰か、真の問題は何か)

読書レビュー

オルデガが分析の対象にしたのは、第1次世界大戦後の1920年代のヨーロッパ社会であったが、この『大衆の反逆』で書かれている事は、現代社会のようでもあるのだ。

オルデガの時代には、大衆”慢心しきったお坊ちゃん”は、目立つ現象に過ぎなかったかも知れないが、現代では、大衆が広い領域において支配していると言えるだろう。
思えば、ファシズムも、自律的に物事を考える市民を中心にした社会ではなく、流されやすい大衆社会だからこそ、成立したのであろう。

この『大衆の反逆』は、一つのまとまった書ではなく、論文集である。

オルデガは、大衆を「文明に突如現れた野蛮人」として捉える。

この野蛮人は、与えられたiPhoneなどの文明の利器を、それがどういう方便で開発され、商品となるまでの現場の苦労などを顧みずに、ただ、与えられたオモチャの如く考え、扱う。

言ってみれば、産業革命が起こり、人間は、自然災害など人間がコントロール出来ない自然から、1920年代には、消費者の便利給与のための人工物による疑似自然によって囲まれるようになったとも言えるだろう。

また、今日の大衆とは、旧文明に対抗する新文明を代表するタイプでは無いと断言している。

オルデガは、この「文明に突如現れた野蛮人」である大衆の出現の背景として、

  1. 職業の専門化
  2. 教育水準の向上
  3. 貴族文化などエリート文化の大衆への影響力の衰退
  4. 想像界としての国民国家の矮小化
  5. ヨーロッパ文明の凋落




を挙げている。

1.職業の専門化

職業の専門化が進むことにより、その職業人は、その専門分野では事細かに知っているという事から、万能感を持ち、まるで赤ちゃんのように、全ての領域においても、何でも出来るという万能感を持つというのだ。

3.貴族文化などエリート文化の大衆への影響力の衰退

オルデガが生きていた時代には、高邁な精神を併せ持つ貴族やエリートが存在していたのであろう。
大衆は、一時期まで彼らの文化を真似て生きてきたが、ある時期から模範としなくなったと思われる。

日本でも、日本の言論界をリードしていた学者、言論人が、かつては存在したが、いつの間にか彼らも大衆化してしまったのに、見て取れる。

4.想像界としての国民国家の矮小化

人間が生きる場としての国民国家の矮小になって来ていることに求め、そのために、ナショナリズムの勃興が起きているという。
これなぞ、現代においても示唆に富むことであろう。

5.ヨーロッパ文明の凋落

社会には”コード”というものが存在する。
つまり、慣習、習慣、常識のようなもので、社会から「こうせよ!!」と暗黙裏に指令される命令である。

人間は、全くアノミーな状態で、全ての事を、まるで生まれついた赤ちゃんのように、全て自分で社会の振る舞いを、自分で決定しなければならないとすると、発狂しかねない存在である。
ある程度、常識の元では、「こういう時には、こうする。」という命令のようなものが無ければ。

オルデガは、恐らく、こういうコードの力が、ヨーロッパ社会で弱体化されつつあり、大衆自らが勝手な振る舞いをし始めたと述べているのであろう。

オルデガは、大衆社会の特徴として、大衆の唯一の行動は、私刑(りんち)としている。

これも、現在のインターネット社会を見れば、さもありなんであろう。
そのインターネット上での私刑により、人生が滅茶苦茶にされた人も出て来ているという。
これなんかも、社会のコードの力の弱まりを感じる。





人間の個々の力では、社会的な制裁力を発揮するには、能力が及ばないのである。
せいぜいできるのが、リンチである。

後半、国民国家を考察している。

国民国家の形成には、未来への計画が必要という。
未来への計画のために団結しうると。

そして、当時の人々にとって、国民国家を超えたヨーロッパ社会に、共通の基盤として注目している。
『生の原理の基盤』として、広くヨーロッパに置き、歴史的使命を終えた国民国家に代わり、ヨーロッパが人々を律していくことを希求している。

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