“わたくしはこれまで、どこと云って自分のいて好い所と云うものがございませんでした。”
罪人である喜助の言葉
役人である庄兵衛は喜助がお上から貰った二百文の貯蓄をありがたがっているのを聞き、自分の身上と比べる。
”しかし一転して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果たしてどれ程の差があるか。”
喜助が二百文の貯蓄で満足しているのに対して
”この根底はもっと深い処にあるようだと、庄兵衛は思った。”
”此の如くに先から先へと考えて見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。
それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衛は気が附いた。”
少し大袈裟なような気もするが、後に『高瀬舟縁起』で見るようにこの場面は、森鴎外が考える、この『高瀬舟』の2つのテーマの1つである。
この財産の観念は、現代にも通用する。
近代化の波により、 人々は、「もっと買え、もっと買え。」の時代ではあり、人々は自分の生活に満足を覚えるのは難しい時代ではある。
しかしながら、 こういう時代においても、 足るを知ることを実践している人達がいる。
また、自分の生活に満足を覚えることが難しい時代だからこそ、この森鴎外が『高瀬舟』で私達に提示した、この【財産の観念】というテーマが、我々の胸にぐっと迫ってくるのである。
この財産の観念
”不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知っていることである。”
”そこで牢に入っってからは、今まで得難たかった食が、殆ど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知らぬ満足を覚えたのである。”
”庄兵衛は今さらのように驚異の目を瞠って喜助を見た。
此時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から毫光(ごうこう)がさすように思った。”
御釈迦様でもあるまいし、毫光がさすとは、少し大袈裟のように思えますが、それほど喜助の存在、喜助の考えていることは、庄兵衛にとっって奇跡であったのでしょう。
言わんや、現代では、なおさらです。
この『高瀬舟』に、森鴎外自身、意図的に2つのテーマを巧く込めています。
僕は、3つのテーマを読み取るのですが。
あとの2テーマは、おいおい見て行くこととします。
僕ら世代以前だと、教科書に必ず出ていた『高瀬舟』。
貴方も、大人になってもう一度読んで味わうのはいかがでしょうか。