[ レビューと考察 ] 東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』〜本書はつまらなかった。物語終焉後の世界の人々の生き方に対する考察〜


 

『動物化するポストモダン』が面白かったので、また、東浩紀といえば、現在、言論界で注目すべき言論人であるし、期待して続編である『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』 を読んでみた。

が、結果は期待外れであった。

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

内容紹介

現代日本の物語的想像力の行方とは? オタクを中心として大量に消費されているライトノベル、ゲーム等の作品分析を通じて、ポストモダン社会の生をも見通す。
文芸批評に新たな地平を切り拓いた快著。

著者について

東 浩紀(あずま ひろき)

1971年生まれ。哲学者・批評家。
専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
2006年10月より、東京工業大学世界文明センター特任教授。

単著に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『郵便的不安
たち』(朝日新聞社)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)。
共著に『自由を考える』『東京から考える』(以上、NHKブックス)。
編著に『網状言論F改 ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』『波状言論S改
社会学・メタゲーム・自由』(以上、青土社)など。
2007年4月より講談社BOXから評論集三巻を刊行。

レビュー

高齢の頭の硬い学者ならいざ知らず、東がゲーム的リアリズムと言う時のゲーム的とは、ゲームプレイ→リセット→ゲームプレイのループだったり、TV画面を前にしてゲームをプレイするプレイヤーという構図であったり、ゲームなり小説なりを分析するにあたって問題にするのは、物語の構図だけだったりする。

今現在、ゲーム実況などをアップロードするYoutuberらが、ゲームを語る際には、ゲームの世界観、操作性など様々な角度で魅力的に、非常に巧みに論じるにも関わらず。

果たして、どれくらいのゲームプレイヤーが、前記の東がゲーム的とするものに納得するであろうか。
通常、ゲーマーにとって、TVゲームとは、制作者による謎の提示、戦闘システムを通しての、プレイヤーのやり込み要素などの攻略のしがいであろう。

ゲーム大国にあって、先の東浩紀のいうゲーム的というものの内容が、いかに貧しいかを嘆かざろう得ない。





物語中心に分析するという手段は、東が古い文学のみに通用すると言う自然主義そのものではないか。

前作『動物化するポストモダン』では、あくまでも批評が主体であり、扱われている、オタク好みの作品は従であったが、本作『ゲーム的リアリズムの誕生』では、作品批評が主体で、オタクはオタクでも、どの程度の人達が読んだり、プレイしているのかと思うような、全く知らない作家、作品に付き合うのは、読んでいて、ほとほと疲れました。

その批評にしても、皮相的で浅いもので全くつまらなかった。
2、3の作品を分析というより、つまらない説明でもってして、本書の最後に、『本書の議論で、2000年代の物語はどのような状況にあり、どこに向かっているのか、そしてその分析にはどのような概念が必要で、それらの概念は批評の場でどう使われるべきなのか、かなりのていど明らかにしたことと思う。』とあるが、驚くべき自負心である。

断っておきますが、私は、アンチ東という立場ではなく、東浩紀を、注目すべき言論人の一人と考える立場の一人です。

前著『動物化するポストモダン』では、クリアカットに理解できた分析も、今回は、何も得るものがなかった。

前著では、オタクの二次創作を分析する事により、なるほど、最先端の文化では、そうなっているのかと納得できるものがあったが、今回もオタクに注目しているが、そもそも、人々の心を掴み、人気を博したものなら、それを分析する事で、社会のある面を理解できるとは思うが、ここまでオタクに注目するのなら、オタク、それも、まるで聞いた事のない作品を取り上げ、それを分析する事で、何が明らかになるのか、それが批評や社会分析に何かプラスになる事があるのか、説明が欲しいところだ。

僕なりの考察

大きな物語が終わったあと、事実が希薄化する中で、自分の物語を生きる時代。

事実が希薄化して行く。

僕は、TVを全くと言ってよいほど見ず、たまに、アベプラを見る事はあるが、時事、事件などのニュースは主にラジオ、新聞から得ています。
地元関西では、硬派なラジオのニュース番組は、ほとんどないのですが、ラジコプレミアムで関東圏のラジオでは、結構あります。

昔は、筑紫哲也氏や鳥越俊太郎氏など、硬派な週刊誌の編集者を経て来た人がTVでキャスターを務めていましたが、稀に目にするTVでは、高齢者、超高齢者のコメンテーターらが、政府によいしょの発言をしているようである。

一方、中年、若手には、揚げ足をとっても、政府批判に持ち込みたい人が多いような気がする。

筑紫哲也氏は、彼の意見を押し付けるのでは無く、見ている視聴者に考えさせるような番組作りをしていたと思う。

誰もが知り、そこには大まかな意味はあるが、そこに込められた意味は個人によって若干異なる、民主主義、自由主義、フェミニズムなどの大文字を簡単に使うと、それが使われた途端、思考停止になるような言葉、ワードがある。

近々、ある要人が問題のある発言をして物議を醸しているが、それを簡単に、「差別発言ですね。」と切って捨てると、聞き手は、単に受け入れて賛成してしまう、若しくは反発し、感情的に反対してしまう。というように、受け手に亀裂が入って分断されてしまう。

そうではなく、SNSのように、感情的、瞬発的に判断するようなツールが全盛な時代だからこそ、余計に受け手に考え込ませるように仕向けなければならないと思う。





僕が若い頃の80年代くらいは、誰も政治など話題にせず、どちらかというとタブーな領域であった。
「ビートたけしのTVタックル」が始まり、お茶の間に砕けた感じで政治などの話題が入り込み、その延長線上で、現在、お笑いタレントが、思いつきの延長線上のような形で、政治などについて喋る番組が急激に増えた。

やはり、時事、事件などを扱うには、それなりの背景のある人がやるべきではないだろうか。

この事を含め、いい加減な報道ワイドショー番組が非常に多いと危惧しているのだが、不思議な事に、識者と呼ばれる人も真面目な報道番組については言及しても、これらの番組については言及しないのである。
久米宏の「ニュースステーション」が彼の歯切れのよい物言いで好評であったが、僕は、彼が恐らくほとんど取材経験の無いアナウンサーであるという事で、彼がアンカーマンをやっている事に反対でした。

通常のサラリーマンが見るような時間帯の報道番組が、今どうなっているかは知りませんが、総じて僕的にはレベル以下で見るに耐えない。

事実の重みがどんどん軽くなっている。

僕は今53歳ですが、そういう僕から見ても、何だかなあというマスコミであるが、陰謀論者らやマズゴミという言葉を使う人達、若い人の中にも、最近のマスコミは偏向している、事実をちゃんと伝えていないと言われても仕方の無いような気がする。

現代思想の影響

現代思想みたいな難解な哲学が、僕らの生活に何か関係するの?という人もいるだろうが、現代思想は色々提議したが、その中に、相対主義というものがある。

しかし、我々は、絶対的という価値が存在せず、すべてが等価な相対主義の中では生きられないのである。
知識人と呼ばれる人も、自信を持ってある価値を迂闊に主張できない。

自分の物語に生きて行く人々

人は、自分が存在している意味を見出せるような物語なしでは生きて行けない。
遠くは、神話や民話に生きている意味を見出そうとした。

事実を正当に報道する番組が減り、事実が希薄化し、一部の人々は、事実を確かめるために、マスコミにアクセスするのではなく、自分の物語に合致したものを送り届けるメディアのみにアクセスし、自分の物語をさらに補強しようとする。

前項で「人に考えさせるようなメディアが必要である。」と述べたが、大衆は、皆が皆、考えたいわけではないだろう。
「ソ連は悪で、我が国は善である。」というような単純な世界で生きていた人達にとって、自分を投影させる大きな物語の崩壊は耐えがたいであろう。

自分を投影させるような大きな物語がなくなってしまい、小さな自分の物語に没入することで生きて行こうという人達がいる。
集団的に見えるのが、Qアノンなどの陰謀説ではなかろうか。
また、日本人である事を誇りに思うのなら、それは健全な範疇であるが、それを持ってして、日本国籍を持っていない者らや他者を攻撃材料にして、ヘイト的な発言を繰り返す者らにも、これは当てはまるであろう。
国家という枠組みに、自分を埋没させ、それが全てだというような様相である。
それらは、差別という概念とは、また違った概念、観念のような気がする。





フェイクニュースを信じる人達に、いくら、その事実を科学的に検証し、事実でない事を伝えてみても、無駄でしょう。
何故なら、そのフェイクニュースは、彼らの自分の物語を形作るものであり、彼ら自身であり、それを否定する事は、彼ら自身を否定する事であるから。

国家とか国籍とかが、グローバル社会で後景に退く中、Twitterなどでヘイト的な事の応酬を見ていると、哲学の概念上現れる剥き出しの自我、自己の闘いを見ているようである。

新たな大きな物語が打ち立てられるまで、我々は、例えば、「努力すれば必ず報われる。」とか己の小さな物語の中で生きていかねばならないような気がする。
大きな物語が打ち立てられるまでは、互いに団結することはなしに。

 

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