ノンフィクションで有名な作品は何かと幾つの本を漁ってみると、この本が紹介されていた。
著者の本田靖春氏は、ジャーナリズムの世界では有名らしい。
が、読んでみて、この本がノンフィクションである事に違和感を持った。
ここでは、僕の違和感を持った点を若干考察している。
誘拐 (ちくま文庫)
内容紹介
東京オリンピックを翌年にひかえた1963年、東京の下町・入谷で起きた幼児誘拐、吉展ちゃん事件は、警察の失態による犯人取逃がしと被害者の死亡によって世間の注目を集めた。
迷宮入りと思われながらも、刑事たちの執念により結着を見た。犯人を凶行に走らせた背景とは?
貧困と高度成長が交錯する都会の片隅に生きた人間の姿を描いたノンフィクションの最高傑作。
文藝春秋読者賞、講談社出版文化賞受賞。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
本田/靖春
1933年、朝鮮に生まれる。
55年、早稲田大学政経学部新聞学科卒業後、読売新聞社に入社、社会部記者、ニューヨーク特派員などを経て、71年退社。
64年には、売血の実態を告発し、現在の100%献血制度のきっかけとなった「黄色い血」キャンペーンを展開する。
77年、『誘拐』で文藝春秋読者賞、講談社出版文化賞受賞、84年、『不当逮捕』で講談社ノンフィクション賞受賞。
2004年死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) –このテキストは、paperback_bunko版に関連付けられています。
[ 書評・考察 ]
よく調べあげられていると思います。
著者自身、捜査員とジャーナリストの役割の違いをよく理解し、同業者であるジャーナリストらが捜査員の務めと混合している事を冷静に観察している。
が、しかし、この『誘拐』は、ノンフィクション上の傑作として評価されているのだが、刊行当時の1977年に、良い作品として評価されるならまだしも、21世紀の現代においても、そう評価されている事に疑問を持つ。
業界の常識、評価する人の評価基準は、おかしいのではなかろうかと。
簡単に、この『誘拐』の内容を紹介すると、東京オリンピック間近の1963年の吉展ちゃん誘拐事件を事件発生から犯人逮捕、刑執行までを、綿密な取材を元に再現されている。
何ら予備知識無く、いきなり、この本を与えられ、読まされると、この本はよくできたミステリー、探偵小説として読めてしまう可能性もある。
人の記憶は、それ程ハッキリしたものでないと思う。
そういうあやふやな証言の資料から創作されると、事実を元にしているとは言え、それは一種のフィクションのような形にはならないか?
僕は、ノンフィクションとは、読者に、どこから事実で、どこから著者の想像力によるものか、区別して読めるようにするべきであると思う。
その上で、その事実をどう判断するか、読者にゆだねるのである。
例えば、事実はこうである。
私が取材した所、A刑事は、その時、『〇〇、しかじか。』と語った。
それに対して、私は、しかじかと考えた。
のような、取材した事実と著者の考えを区分けして読者に伝えるべきではなかろうか?
A刑事は、『カクカク。』と述べた。B刑事は、それに驚き、『〇〇』と応えた。
文章をこういう形にする事で失われるモノは、大きくならないであろうか?
人の脳は、物語という形式の方が頭によく入るという。
なので、再現ドラマの方が、読者に訴え易いであろう。
が、事実には事実の扱い方があるのではなかろうか。
他人の想いを推し量るのは、難しい。
それを著者の想像力で埋める事により、何かが変わらないだろうか?
もし、フィクションのような形式で書くなら、小説という形で、小説家が、この事件の背景にあるものを膨らませて、小説で書かれた方が、僕は、よかったと思う。
なので、この『誘拐』は、TVでよくやる再現ドラマの質の良いものとしてしか評価出来ないと思う。
最後に、犯人が自分の犯した罪の重さを考え、何度転生しても、償いができるようにと改心して、刑を受け入れたのは、一市民として、良かったと思います。