[ 考察 ] 岩田正美『現代の貧困 ーワーキングプア/ホームレス/生活保護 』を読んで日本の貧困問題を考える。


 

コロナ禍になり、様々な業界が危機に瀕し、中には廃業に追いやられたり、雇い止めなどに合い、新たな大きな貧困問題が浮上している。

そんな中、この『現代の貧困』を手に取った。

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)

格差社会の果てにワーキングプアや生活保護世帯が急増中、と言われる。
しかし本当にそうか?
バブルの時代にも貧困問題はあった。
ただそれを、この国は「ない」ことにしてきたのだ。

そもそも、貧困をめぐる多様な議論が存在することも、あまり知られていない。
貧困問題をどう捉えるか、その実態はどうなっているのか。

ある特定の人たちばかりが貧困に苦しみ、そこから抜け出せずにいる現状を明らかにし、その処方箋を示す。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

岩田/正美

1947年生まれ。
中央大学大学院経済学研究科修士課程修了。博士(社会福祉学)。

日本女子大学教授。
研究テーマは、貧困・社会的排除と福祉政策。

『戦後社会福祉の展開と大都市最底辺』(ミネルヴァ書房)で第2回社会政策学会学術賞、第4回福武直賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

読了後の考察

貧困と格差では指し示す内容が違う。

まず、著者である岩田正美さんは、貧困と格差は違った内容を指す言葉であるという。

格差とは、状態を表す言葉であり、貧困とは、その社会にとって、「あってはならない」という価値判断が働く言葉であると。

また同時に、福祉国家を実現させてきた国々は、繰り返し、貧困を再発見してきたという。
この事が具体的に、どういうものかを明確に示してはいないけれども、日本の場合のように、これだけ、格差社会が叫ばれている中、散発的に記事にするのではなく、新聞なら連載記事にしたり、政府なら貧困ラインを協議し、統計を取り、そこから、貧困に陥っている人々を抽出して行く作業などを指すのではなかろうか。





また、著者によると、貧困の境界線を定める方法は、幾つか存在し、ここからが貧困と決める貧困ラインを決めるのは難しいという。

要は、社会的合意だろうが、先日、新聞で最低賃金を決めるのに、労組が、生活に必要な物品を吟味し、ピックアップして行き、月にどれ位の収入が必要され、そこから、最低賃金を定めていく様子が報道されていた。

生活保護に厳しい現在であるが、生活保護の支給額においても、そういう方法が合理的であると思う。

最低賃金が最近クローズアップされているが、その昔は、最低賃金近い時給で生活している人は少なかった。
現在では、最低賃金近くで雇われている人が多くなってきたようだ。

また、岩田正美さんは、現状、貧困家庭が増加しているのか、減少しているのか、簡単には言えないとしている。

ワーキングプアの賃金よりも、生活保護の支給額が高いというパッシングについて。

以前は、それだけ層が厚くなってしまった低所得層の当事者から、そういう批判が出て来ているのではないかとも考えていたが、どうもTVとかでも、よく見ていると、必ずしもそうではなく、比較的恵まれた階層の人から、倫理的に許されないという意味で主張されているようにも思う。

今、丁度読んでいる『満足の文化 (ちくま学芸文庫)』で、経済学者である著者・J.K. ガルブレイスは、アメリカでは現在の境遇に満足せる選挙多数派は、自分達が納めた税金が貧困層に使われるのを拒否しているというのだ。

日本においても同じ事が言えるのかも知れない。

日本国憲法第25条
第1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

僕の高校時代は、1980年代前半で、自民党もそうだが、社会党も確固たるポジションを得ていたが、僕は、憲法9条に別に感慨を得なかったが、高校の教科書で、この生存権の条文を見た時、感動を覚えた。

こういう簡潔で簡便な優しい言葉で人間の基本的な権利を謳い上げていることに。

著者の岩田正美さんも仰る通り、ワーキングプアと生活保護を比較して、生活保護の支給額が高過ぎると批判してみても、ワーキングプアの問題が解決する訳でも何でもない。

そういう意見を社会に表明する方は、その意見が社会に亀裂を生み、分断をもたらす事を承知してから意見表明すべきである。

自己責任論をめぐって。

ホームレスなどに陥るのは、自己責任だからしょうがない。本人の責任であるという声がネットを中心に主張される場合がある。





少し待って欲しい。
果たして、我々は、公平な基盤で公平に競争しているのであろうか?
同胞への共感は?

公平な基盤で公平に競争しているのであれば、そういう自己責任論も通るであろう。
性格などの要素も、我々は、環境と遺伝に影響され、形成されている。
また、どの程度、遺伝によるものか、どの程度、環境によってもたらされるのか、その配分は、人それぞれである。

そういう環境という不確定要素が存在する限り、各個人が全く公平な立場で競争しているとは言えない。

また、例え、全く公平な競争であっても、私は、その人が持って生まれた能力という個人の力ではどうしようもない要素が存在する以上、私は、人為的な力によって、それを是正するという立場である。

ましてや、昔のように、そつなく仕事をしていれば、それなりの収入を得られるという時代でもないのだから。

こういう場合、有効なのは、ロールズの『正義論』で提唱されている無知のベールである。
あなたは、目隠しされ、どういう国籍を持ち、どのような階層に存在しているか、解らない状態に置かれている。
そんな中で、どのような選択をするかである。

いわば、想像力が試されているという訳である。

この本で、1994年から2002年の長期の間、全国の女性を対象に調査した結果、35%の女性が一度は貧困を経験したという。

日本の福祉は充実しているか。

日本の福祉が充実している、中福祉であるという意見は、昭和の時代の堅調であった日本企業の厚い福利厚生を加味しているからではなかろうか。

ヨーロッパでは、公営住宅が充実していて、パリなどの大都市にも住むことが難しくないと聞くが。

また、岩田正美さんによれば、現役世代が経済的危機に陥った場合に頼りに出来るセーフティネットが少なすぎるという。
これなんかも、最近になってようやく、子供への福祉が取り沙汰されるようになったが、若者はまだ放置されたままだし、さもありなんと思う。

僕が学生の頃、1年生の時、学費が1年で20万程度であったのが、私学との格差が大きいので、国立の授業料を上げるという、よくわからなぬ理由で、倍倍ゲームに近い感じで、毎年の授業料が上げられていった。
今、国立であろうと、相当な額を支払わねばならないのであろう。

勿論、福祉のレベルを上げるには、もっと税金を払う必要があるのだが。
日本の場合、政府への信頼度が低いので、高福祉高負担という形になりづらいという問題が存在するのではあるが。

貧困に不利な人々。

著者が調査した結果、貧困という乗り合いバスに、人々は、入れ替わり立ち替わり、乗下車するが、その中でずっと貧困という乗り合いバスに乗車している特定の人達の特性を同定している。





マスコミでは、往々にして、ローン地獄など、貧困は豊かさの病理として語られるが、それは、就業形態、婚姻形態、世帯類型が、標準と外れる人達である。
これは、ホームレスの来歴を調査した結果とも一致する。

明らかに、昔のように、夫=正社員、妻=専業主婦、子供2人という核家族という形態が減少し、単身者や様々な形態の家族の形態が増加しているのに、政府は、先の核家族に固執し、それをモデルに現状に合ってない形で制度設計している。

従って、そこからこぼれ落ちる人も少なくないであろう。

さいごに。

やはり、こういう貧困の問題を考えるに当たって必要なのは、共感であろう。
その点で、本書は、統計的にデータが提出されてはいるが、貧困に陥った人達の生の声が、ほとんど存在しないのは残念である。

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