犯罪と小説 文学を読む意味 ドストエフスキー『罪と罰』を例に 角田光代『森に眠る魚』の紹介を兼ねて

[`evernote` not found]

1.はじめに

本記事は、角田光代さんの『森に眠る魚』の物語の背景となるお受験殺人と一般に呼ばれる文京区幼女殺人事件との関係、もっと普遍的に犯罪と小説との関係について『罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)』を例に取り、書いてます。

この世間を騒がしたという文京区幼女殺人事件のことを、僕は全く覚えていません。
Wikipediaのリンクを貼り付けていますが、『森に眠る魚』を未読で僕と同じように、このお受験殺人と呼ばれる文京区幼女殺人事件の詳細を知らない方は、『森に眠る魚』を読了してから事件の詳細を知った方が味わい深いのではないでしょうか。

2.『森に眠る魚』の概説

この『森に眠る魚』は、映画で話題になった『八日目の蝉 (中公文庫)』『三面記事小説 (文春文庫)』などなどの角田光代(Amazon著者ページ)さんのの犯罪小説シリーズの一作です。Amazonの著者ページも変わりましたね^^
著者の角田光代さん自身が幾つかアンケートに答えていました
角田光代 – Wikipedia.

3.物語の背景であるお受験殺人と言われる文京区幼女殺人事件と『森に眠る魚』

この『森に眠る魚』のバックグラウンドには、1999年11月に起きたお受験殺人と言われる文京区幼女殺人事件があります。
この事件は、1999年11月に起きていますが、この『森に眠る魚』は、1996年8月に幕開け、2000年3月までを描いています。

これは言っておいていいでしょう。
殺害の現場らしき描写はありますが、登場人物の親子は誰も死にません。

僕は、この文京区幼女殺人事件が起きた1999年11月当時は、仕事に猛進していたのか、関西在住だからか、この事件のことを記憶してません。
Wikipediaを見ると、子育てで精神的に追いつめられてと言うより、どうも加害者の性格の特異性によるものとされています。

文京区幼女殺人事件 – Wikipedia.

ただ、このWikipediaは、どうも法曹関係の人が書いたようですが、ある犯罪が起きると、人々は理由付けを求めてしまいます。
それは、何故でしょう?
犯罪とは、得体の知れないものです。
得体の知れないものは、犯罪に限らず、人々を恐怖、不安に陥れます。
それで人は、犯罪の理由を求め、自分の理解の範疇に納め、安心したいのです。
そして、多くの人々は、そういう犯罪は特異的、異常な人々によって行われ、私とは関係ないわと思いたい訳です。

古今東西、映画、小説などの芸術は、犯罪を得体の知れないものそのものとして描いた傑作作品が数多く存在します。

4.犯罪と小説との関係 『罪と罰』を例にとって

例えば、有名なドストエフスキー『罪と罰』の場合を見てみましょう。
主人公のラスコーリニコフは、選ばれた非凡の才能の持ち主は、一介の老婆くらい殺害しても何の罪にもならない。
と記され、実際に老婆を殺します。
では、読者の我々は、文字通りにその動機を受け取っていいのでしょうか。
僕には、ドストエフスキーという魂を揺さぶる作品を残した偉大な作家が、ラスコーリニコフが老婆を殺した動機をそういうある意味陳腐なものに置いたとは、とても思えません。




僕が『罪と罰』を読んだのは大学生くらいの頃でしたが、僕の記憶では、『罪と罰』の後半部分に改心したラスコーリニコフが自身の抱いていた思想が間違っていたという痛恨の描写があったでしょうか。
もし、あったのなら僕が恥をかくのですが(^^ゞ

あえて言えば、日本の昔の左翼インテリらが、その主義、そのイデオロギーのために、事実を自身の主義、イデオロギーに合致した形にの歪んだものと解釈しようしたように、ラスコーリニコフは、無理に自身の老婆殺害の動機を偉大な人物は、・・・・と理由づけ、そう自ら思い込もうとし、自らを欺こうとしたのではないでしょうか。

ドストエフスキーの小説には、ドストエフスキーが生きた時代を反映し、当時、ロシアに存在した多くの革命を標榜した高度なインテリが登場します。
一説によると、ドストエフスキーは、彼らのことをとても危ぶんでいたと言われています。
ラスコーリニコフも、そんなドストエフスキーの生きていた時代に存在した、自身の思想に殉じた危うい青年の一人だったのではないでしょうか。

僕は、ラスコーリニコフは、自身もなぜ老婆そしてその妹を殺したのかがわからなかった。
なので、彼自身、半狂乱となりつつ煩悶したのではないでしょうか。

読書とは、読者と作者の紡ぎ出す物語との対話から生まれます。
あなたの答えを、あなた自身が導き出して下さい。
難解とされるドストエフスキーの作品群の中でも、『罪と罰』は比較的読み易いです。
また、この光文社古典新訳文庫は、今までの翻訳よりも一段と読み易いものとなっています。

芥川龍之介の『羅生門』の場合

また、芥川龍之介『羅生門』で最後に下人が「生きるためには仕方ない」から死人の女から髪を抜くのだという老婆に対して、「ならば、俺も生きるために仕方ないから」と言って、老婆から着ぐるみ剥く。
この下人の論理は、筋が通っています。
しかし、これを読んだ皆さんは、ある種のおぞましさを感じませんでしたか?
僕は、この『羅生門』を読んだ後、平安時代の荒廃し、荒んだ京の様子や寒々としたものを感じたのを覚えています。

5.文学を読む意味

結局、僕は何が言いたいかと言えば、真理を追究する司法の場であっても、例え、どれだけ優れた研究家もしくはジャーナリストであっても、ある事件の真相は、一つの解釈、物語にすぎないと言うことです。

そして、ミステリーとは一線を画す文学とは、週刊誌やマスコミなどが差し出すステロタイプ(固定観念)化されやすく、大衆受けされやすい解釈、物語とは異なったストーリーを紡ぎだすものです。
そして、それこそが文学を読む意義であり、意味であります。

文学理論の始まりであるロシアフォルマリズムに異化効果というものがあります。
それは、手垢にまみれた事物、言語、日常の何でもない事柄、言葉に、文学が新しい光を当て、読者がそれまで慣れ親しんでいた事物、言葉に、まるで初めて出会ったような感慨を与えるというようなものです。

その後、文学理論は発展しましたが、大江健三郎氏は、この異化効果こそ文学の仕事であると言い切ってます。
この記事の文脈に即せば、文学とは、ある犯罪に受け入れやすい答えを用意するのではなく、ああでもあるかもしれない、こうであるかもしれなかった犯罪の真相へ読者の想像力、創造力を導くのである。

誰もが受け入れやすい物語、ストーリーには、巧妙な隠蔽と嘘が潜んでいる。
僕は、そう思います。

例えば、あなたにも人生で忘れることの出来ない経験、失敗の一つはあるでしょう。
その経験なり失敗の行為に、あなたは他者を納得できる理由を説明できますか。
賢明な方は、その経験、失敗から教訓を導き出すでしょう。
しかし、それはああでもあるかもしれない、こうであるかもしれなかった事実の解釈の一つです。
誰もが思い浮かべる教訓を導き出しても、他の人と変わらない人生しか歩めないでしょう。
あなたらしい、あなたならではの人生を歩むためにも、あなた独自の観察力、洞察力、考える力が必要なのです。
そのためにも、文学という芸術が必要なのです。

この角田光代さんの『森に眠る魚』も、実際のお受験殺人と言われる文京区幼女殺人事件のWikipediaに書かれているようではなく、実際に登場人物の誰が加害者となってもおかしくないというように描かれています。

また、実際の幼児殺害現場の描写には上手いある仕掛けが施されています。

記事が長くなってしまいました。
内容へのコメントは、また次回ということで^^

[`evernote` not found]

コメントを残す