川上未映子さんの本は初めてだったのですが、書評などでの評判がよく手に取りました。
結果、率直に読んでよかったと思いました。
イジメが主題の物語ですが、美しい文章で綴られ、切ない物語となっています。
「机も花瓶も、傷はついても、傷つかないんだよ、たぶん」
とコジマはつぶやくように言った。
「うん」と僕は肯いた。
「でも人間は、見た目に傷がつかなくても、とても傷つくと思う、たぶん」
とコジマはさっきにくらべてもっと小さくなった声で言い、それきり黙ってしまった。
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内容紹介
驚愕と衝撃!圧倒的感動!
「僕とコジマの友情は永遠に続くはずだった。もし彼らが僕たちを放っておいてくれたなら――」
涙がとめどなく流れる――。
善悪の根源を問う、著者初の長篇小説
「苛められ、暴力をふるわれ、なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」
彼女は言う。苦しみを、弱さを受け入れたわたしたちこそが正義なのだ、と。彼は言う。できごとに良いも悪いもない。すべては結果にすぎないのだ、と。ただあてのない涙がぽろぽろとこぼれ、少年の頬を濡らす。少年の、痛みを抱えた目に映る「世界」に、救いはあるのか――。
講談社HPより
舞台
携帯も存在しない、ネット世界も介在しない1991年の中学校
登場人物
僕:斜視であり、毎日のように二ノ宮、百瀬たちにひどいイジメを受けている。
コジマ:家が貧乏であること、不潔だということでクラスの女子から苛められている女子生徒
二ノ宮:僕をいじめる中心的な生徒。「彼が冗談を言うとそこにいる誰もが笑った。」
百瀬:二ノ宮たちとともに僕を苛める生徒
物語のはじまり
ある日、僕のふで箱の中に、<わたしたちは仲間です>と書かれた紙が入っていた。
数通、手紙が送られて来た後、「会いたいです」と。
僕が会いに行くと、それはコジマであった。
「友達になってほしいの」とコジマ。
コジマと僕は、こそっり手紙をやり取りするが、教室の中では、コジマと僕は言葉も交わさず、目も合わさない。
題名のヘヴンとは
コジマがいちばんすきな絵のこと。
「その部屋はね、ちょっと見るだけだとふつうの家のふつうの部屋に見えるんだけど、そこはね、じつはヘヴンなの」
「天国ってこと?」
「ノー。ヘヴン」
(中略)
「その恋人たちはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったの、ものすごく。でもね、それをちゃんと乗り越えることができたふたりなんだね。だからいまふたりは、ふたりにとって最高のしあわせのなかに住むことができているって、こういうわけなの。ふたりが乗り越えてたどりついた、なんでもないように見えるあの部屋がじつはヘヴンなの」
コジマはそう言うとためいきをついて目をこすった。
おそらくコジマは、このヘヴンの絵に描かれる恋人たちに、将来のコジマと僕の未来を重ね合わせているのだろうが、その心情を察すると、とても切ない。
このコジマが一番好きな絵であるヘヴンは、コジマの口から語られるのみで、僕は実際には目にしない。
このことは、この『ヘヴン』という物語の結末に暗示的である。
コジマがとてもすきだという僕の斜視に関して
引用すると
右目はだらりと目じりに流れて、あいかわらずどこを見ているのかわからなかった。不気味だった。
コジマが不潔にしている理由が好きな父親を忘れないためのシルシであり、それはコジマの意思によりわざとそうしているのであり、清潔にしようとすれば出来るのに対して、僕の斜視は幼い頃から存在し、僕は簡単には治せるとは思っていないのは、非常に対照的である。
そして、コジマは言う。
「わたしは、君の目がとてもすき」
苛めに対する三者の受け取り様またはその世界観、そして批評のようなもの
コジマ
「大事なのは、こんなふうな苦しみや悲しみにはかならず意味があるってことなのよ。」
「あの子たちにも、きっとわかるときが来る。いつかぜったいに色んなことが大丈夫になるときが来るから」
「あの子たちにも、いつかわかるときが来る」と何度も繰り返すコジマ。
百瀬
「権利があるから、人って何かするわけじゃないだろ。したいからするんだよ。」と僕を苛めている理由を”たまたま”であることを繰り返す百瀬。
「だからさ、そういう阿呆みたいな嘘をたよらないでさ、自分の身は自分で守るしかないよね」
そう最近、読んだ宇野常寛の『ゼロ年代の想像力
』から僕なりに引用、解釈し、この『ヘヴン』という物語に応用するとしたなら、僕、コジマ、百瀬たちが生活しているこの1991年の中学校は、敵が誰で味方が誰でと割り振られた世界に安住しているわけではなく、“たまたま”選ばれた者がターゲットにされる、そして、次のターゲットは自分かもしれないバトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界に生きているのである。
次の百瀬の言葉は、相対主義が深く浸透した刹那的なポストモダン状況に我々が生きていることを意味する。
「弱いやつらは本当のことには耐えられないんだよ。苦しみとか悲しみとかに、それこそ人生なんてものにそもそも意味がないなんてそんなあたりまえのことにも耐えられないんだよ」
(中略)
「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」
一方、僕はといえば
僕
僕は引きずりこみたくもないし、引きずりこまれたくもないんだよ。
この「僕の想像力」は、「世界から引きこもることによって、誰も傷つけたくない」という「九十年代の想像力」と呼ばれるものなのだ。
宇野常寛が指摘するように、バトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界に対しては、この「引きこもり」の態度は通用しないのだ。
「頑張ればなんとかなる、我慢していれば、明るい未来がきっと来る」というコジマの想像力は、「昭和の想像力」と呼べるかもしれない。
ラスト近く、コジマが二ノ宮、百瀬らいじめっ子に対して取った態度は、立派であるし、感動的であり、神々しいのだが、それはやはり、それはいくつかの物語で見てきたものと変わらぬ「昭和の想像力」の限界ではなかろうか?
僕の「九十年代の想像力」とコジマの「昭和の想像力」、百瀬の「ゼロ年代の想像力」による世界観は、結局、交わらずのまま物語を閉じる。
確かに、爽やかな終わり方であったが、ここには宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で模索したバトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界を終わらせようとする想像力はなかった。
僕の批評のようなものに少しでも興味をもたれた方がいれば、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力
』を手にとって欲しい。
なんだか厳しいようなことを言いましたが、この川上未映子さんの『ヘヴン』は美しい文体で書かれた読んで損は絶対にない物語となっています。
今現在、ひどい虐めの渦中にある君へ
僕は、学生時代、幸いにもそれほどひどい虐めは受けたことがありませんでした。
今現在、この『ヘヴン』の僕やコジマのようにひどい虐めを受け、毎日がとてもつらくて自殺とかを考えている君がいるかもしれない。
そんな君に、僕は例えば親や先生にちゃんと言いなさいとか、負けてばかりいずにたまには相手にぶつかってみろとか、強いことは決して言えない。
また自分で解決しなさいとも親ではない僕には言えない。
何故なら、いじめと一口に言っても様々なケースがあるだろうし、君自身がどう思っているかは親友でもない僕には判らないからだ。
ただ、これだけは言える。今、君はその学校の世界が永遠のように続き、社会に出てもその延長線上でしかないとか思っているかもしれないが、それは間違いだ。
世間はもっと広い、これからいろんな人に出会い、あの暗い学校生活が何だったのかと思える日がきっと来る。
それまでは、自ら命を絶つようなことは決してしないで欲しい。
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川上未映子 ヘヴン
「僕とコジマの友情は永遠に続くはずだった。もし彼らが僕たちを放っておいてくれたなら―」驚愕と衝撃、圧倒的感動。涙がとめどなく流れる―。善悪の根源を問う、著者初の長篇小説。(「BOOK」データベースより)川上作品は『乳と卵』しか読んでいませんが、本作はあ
こんにちは~こちらに来るのが遅くなってしまってスミマセン。(・ω・;A)アセアセ…
1991年ってもう平成に入っていますが、携帯電話やネットのない時代ということと、コジマの考え方からして私も一昔前の、トグサさんの仰る「昭和の想像力」、昭和の世界のイジメを描いているかなぁとは感じていました。だから今のいじめとは随分と違うところがあるのだろう
なとも。
私はいじめられる側の人間だったので、百瀬の言い分は言いくるめられそうになる説得力があるんだけど、やっぱりもやもや感は残りましたね。でもきっとそういう考えだからいじめる事が出来ちゃうんだろうなぁ。私は当時いじめられてはいたものの、ある1つの面で一目置かれていた存在だったので、そこまでひどいいじめにはならなかったんだろうなと思うし、心の拠り所となる音楽があったから耐えることが出来たんだろうなと思っています。
>板栗香さん
こんにちは~♪コメント&TBありがとうございます。
そうですねぇ。著者の川上未映子さんが年少時代を送った時代は、平成だと思いますが、この『ヘヴン』で描かれているいじめは昭和時代を彷彿させますね。
僕らの時代もいじめはありましたが、僕らの場合、誰かイジメラレ子がいてというよりも学校自体が荒れていたので、先生らに反抗するというようなところが大きかったです。
僕も、下駄箱の靴に押しピンを入れられていたりしましたが。
他にもありますが・・・。
いじめで学校がつらくなったという事はなかったような気がします。
でも僕らの場合と違うところは、百瀬らの冷め方ですねぇ。
「別に誰でもいいから、たまたま」ということはなかったと思います。