[書評]モラヴィア『軽蔑』(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集)河出書房新社


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この書籍池澤夏樹=個人編集 世界文学全集『マイトレイ エリアーデ/軽蔑 モラヴィア』は、極上の心理サスペンスである。

<あらすじ>

この物語は、夫・リッカルドの視点から書かれた一人称の物語である。

リッカルドは、劇作家となることを目指していた。

身分不相応のアパートを購入し、その支払いを工面するために、不本意な報酬のいい映画のシナリオを書くという仕事を引き受ける。

アパート購入は、妻の夢でもあったはずだ。

が、映画シナリオの仕事を引き受けた頃から、妻・エミーリアの自分に対する態度に、よそよそさを感じる。
それは、リッカルドが考えるに、映画プロデューサーであるバッティスタとの会食の帰りに、妻をバッティスタと共に無理矢理、車に乗せてからだと考える。
その時、妻・エミーリアは、バッティスタとの同乗を嫌がり、自分と共に同乗したがっていた。

そして、リッカルドの「果たして、今でも妻は、自分を愛しているのだろうか。」という苦悩と煩悶の日々が始まる。

 <主な登場人物>

この物語は、イタリアを舞台としたイタリアの小説である。

シニュール・リッカルド  この物語の主人公

エミーリア  リッカルドの妻 美貌な容姿とは裏腹に貞淑な家庭的な女





バッティスタ 映画プロデューサーでリッカルドの雇い主

ラインゴルト ドイツ人であるリッカルドと共に仕事をする映画監督

<この小説『軽蔑』と映画との関係>

ネオレアリズモ運動と『軽蔑』

僕は、映画も好きなのだが、この『軽蔑』に出てくる映画プロデューサーであるラインゴルドの冷めた自国の映画への批評は、昔の映画ファンなら、思わず笑っちゃうのである。

ちょっと、メモってないから、具体的な台詞は、忘れましたが、ヒューマンで人道的で、そこに人々の感動を生んだネオレアリズモ運動の映画を、貧乏くさくてケチくさいというのだ。

もっと巧い表現でしたが。

例えば、後に芸術性の高い独自の映画作品を撮るフェデリコ・フェリーニの『道』なんか、泣かすのだが、確かに、しみったれて、辛気くさいという一面も持つ。

今まで、ネオレアリズモ運動をそんな風に見てきてなかったし、そんな風に断罪する人も知らないし、その箇所を読んだ時、思わず心の中で拍手喝采したいようなユニークであった。

『軽蔑』というタイトルと映画

ゴダールの映画に『軽蔑』という名の映画がある。

映画 『軽蔑』 は、全編に”軽蔑” というムードが漂っています。

この小説『軽蔑』は、妻からの軽蔑に、四六時中、怯えている主人公の物語である。

ギリシャ神話

この画像は、「ギリシャ神話 無料 素材」と検索し、そのページを確認した上でダウンロードしたものである。

『軽蔑』内の物凄い映画の構想

主人公は、『オデュッセイア』の脚本の依頼を引き受ける。





この『オデュッセイア』は、ギリシャ神話であり、とにかく壮大な映画の構想なのである。

その脚本を主人公・シニュール・リッカルドに、頼まれるのである。

その構想というのが、とても壮大でとてつもない内容なのである。

リッカルドと監督ラインゴルトが、プロデューサー・バッティスタから映画制作を依頼され、その制作について話し合う。

ギリシャ神話を映画にしようという話など、今まで聞いたことがないのです。

その構想内容は、とてつもない壮大なものでした。

1人称で語られる心理劇 『軽蔑』

物語は、夫である主人公の1人称で語れている。

そのため、夫から見た妻エミーリアの様子は、夫の主観である。

そのため、妻エミーリアの様子は、読者からは、実際どうかを判断しづらい、

だから、読者は、主人公・シニュール・リッカルドが語る妻の心理描写が、果たして正しいのか、どうかを、想像を補いながら、読んでいかなければならない。

『軽蔑』の発展

「主人公の夫が妻エミーリアにもう愛してもらってないのではないか。」という思いが、最後には、本当に妻からの軽蔑に発展してしまう。

『軽蔑』の設定の面白さ

通常、日本では、妻に愛されているかどうかと考える人は全くいないでしょう。

欧米では、実際どうか、わからないが、ここまで、妻の愛を疑うのは、珍しいでしょう。

妻が夫に愛されているかどうかを気にする場合は、多いかも知れないけれど。





そのため、この『軽蔑』では、夫の側からの妻の行動、内面への疑いが繰り広げれており、ほかの小説では味わえない面白さがある。

その面白さは、読者が、夫から妻への疑いと、そこから描かれた妻の描写の間で、実際のところ、「主人公の夫が妻エミーリアにもう愛してもらってないのではないか。」という思いが事実であるかどうかを推測しながら、読書体験を続けることである。

『軽蔑』で繰り広げられる印象に残る台詞

「結局のところ、何をあたしに求めておいでなのかしら?」

「真実だよ・・・・。」

真実は、哲学用語であり、欧米人、特にヨーロッパ人にとって”真実”というのは、特別な響きがある。

「強制しているのはあなたではないわ。」

と妻は泣きながら言った。

「それは生活よ。」

この台詞は、男としては救いようのない言葉ではないだろうか?

 

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