取っ付き難いと言われる大江健三郎氏だが、僕のミステリー以外の読書歴では、村上春樹と並んで、よく読んでいる作家である。
が、確かに取っ付きにくい。僕も、何となく、その世界に浸りたい時期と読むことすらできない状態もある。
mixiで、僕が読んでとても面白かった『同時代ゲーム』と並んで評されていたのが、この『洪水はわが魂に及び』であり、以前から気になっていました。
作家としてではなく、言論人としての大江氏とでは、政治的立場を異としますが、それでも、もはやほとんど永眠されている戦後知識人の最後の砦であり、同じく戦後知識人の良心のようなものを感じ、敬意を表しております。
<簡単なあらすじ>
樹木の魂、鯨の魂の代理人・勇魚と、その障害を持つ子供・ジンは、核シェルターに暮らし、隠遁生活を送っていた。
そこに、自由航海団を名乗る若者たちが集まり、お互い様子を探りながら、当初、敵対していたのであったが、やがて、自由航海団は、勇魚を言葉の専門家として認め、共闘するようになっていく。
洪水はわが魂に及び(上)(新潮文庫)[Kindle版] | ||||
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<感想>
読み進む内に、まず感じたのは、この小説は1973年発表のようですが、当時のアングラ文化の影響が濃いなあという感慨を受けました。
また、グロも。
例えば、「自由航海団」のメンバーの一人に、「縮む男」という呼び名の男が登場するのであるが、その男は、ある日を境に、体が徐々に縮んで行くというのである。
また、同じくボウイと呼ばれる男も、80年代や90年代のそれではなく、明らかに60年代や70年代のどこか暗いボウイの性格付けなのである。
そして、時折、繰り返される鳥の声を聞いたジンの発する言葉が、まるで鶯の鳴き声のように、とても心地よく、美しく流れるのであった。
-キジバト、ですよ、オナガ、ですよ。
下巻に入っていくと、この確としたターゲットは持たないながらも、反体制を謳う勇魚親子を含んだ集団が孤立し、警官隊と遣り合うという風に話は進むのですが、核シェルターといい、モチーフとして「ノアの方舟」の神話が下敷きになっているなあと伝わってきます。
「ノアの方舟」
地上に悪がはびこり、神が怒り、ノアにのみ、方舟の建設を命じた。
ノアは、方舟を完成させ、自分の家族、全ての動物のつがいを載せた。
洪水は40日続き、地上の生き物すべてを滅ぼした。
勿論、この場合、勇魚らの住処である核シェルターが、ノアの方舟であり、終盤、自由航海団の連中は、ここに立て籠もり、警官隊と雌雄を決する。
事実、核シェルターに立て籠もるメンバーらは、当初、自由に大海を遊泳できる船を要求し、シェルターを大船室(メイン・キャビン)、メンバーを乗組員と呼ぶのであった。
この警官隊との立て籠もっての銃撃戦は、否が応でも浅間山荘事件を想起せずにいられません。
あさま山荘事件は、1972年2月に発生しています。
一方、この『洪水はわが魂に及び』は、Wikipediaには1973年に発表と記されているだけです。
同時代に読んでいた人には、了解済みであったのか、おそらく、あさま山荘事件を受け、大江さんは、この物語を書いたと思われます。
大江さんのエッセイも、少し読むんではいるのですが、このことは確かには知りません。
僕は、この『洪水わが魂に及び』を読み終えたあと、大江さんは、当時、社会をよくしようと革命に投じた若者の末路が、陰惨なリンチ事件の浅間山荘事件で終結したのに、世間はひどくダメージを受けいたのですが、その浅間山荘事件を小説という空想の中で、決して褒められた面々ではないが、個性豊かなメンバーが、それぞれ個々のルールに基づいて闘った姿を通して、浅間山荘事件及び70年安保を再生しようとしたのではないか、そんな考えを持ちました。
勿論、大江健三郎氏ら戦後知識人らは、70年安保の人々から非難される立場であったのだが。
結論づけると、文化人類学を演繹し(それによって、高度なインテリには、胡散がられた。)、昔話のような童話のような世界を完結させた『同時代ゲーム』とは、大分、趣が違いました。
また、ラストは、昔そういう終り方をする映画はよくあったなあという感慨を持つ、映像的な余韻を残すものでした。
勇魚は、樹木の魂や鯨の魂に呼びかけるのですが、この樹木、魂は、何のメタファーなのか、単に大自然を顕わしているのか、今でも判然としません。
ただじっと、樹木も鯨も人間も死滅する日を、待機しているだけの生活をしている。
上巻 P168
勇魚であったが、最後には立ち上がる。
政権与党に代わりうる政党を打ち立てると盛んだった政党が、とんでもないていたらくで、現在、日本には、わずかに存命の戦後進歩派知識人を除くと、核とした抵抗勢力が消滅してしまいました。
勇魚らの行動は、そんな時代に、「流されていてばかりでいいのか?」
そう問われているようにも思います。