[ 読後ノート ] カール・マルクス 『資本論1』(岩波文庫)ー読了後のノートと考察ー

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アダム・スミスが、資本主義社会を分業の観点から見ていたとするなら、このマルクスの『資本論』は、分業された社会を、アダム・スミスが見ていた社会を逆から、逆立ちして見ていたと言える。
つまり、アダム・スミスが、社会を俯瞰的に、経済が分業されている様子を見ているとするなら、マルクスは、ミクロに、モノが売られ、購入される現場、商品←→貨幣の場面を執拗に分析する。

亜麻布ー貨幣ー聖書

亜麻布が売られ、貨幣に転換し、その買い手が、聖書を購入するような現場だ。

難解だが、例示が多いので、まだなんとか理解できるというのが、率直な感想である。
この記事は、難解な『資本論1』を読了後の考察を加えたノートである。

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

<読了後のノート>

労働力。

資本は、工場などの生産手段の所有者が、市場で労働力の売り手を見出すところに成立する。

労働力の価値とは、その国の文化環境によって異なる。

労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に解消する。(p299)

〜『資本論』を考察する補助線〜

高度な特殊技能を要する労働など、労働価値が高く、そのため、より多くの労働対価を支払わなければならないような労働も存在するが、基本的に、マルクスは、一般労働の対価として、その労働者が、生活していくための労働対価を想定する。

現代の一般に働いても、生活が苦しい現況が、いかに歪かがわかるであろう。

また、世間には、その労働の対価が、一般には承認できないような高い対価、もしくは、逆に低い対価が存在する。

例えば、高い例は、TV業界であったり、低い例は、福祉関係であったりする。

誰かが、それを支払うのであるが、その労働対価は、社会的な承認が必要なのではないか?
そんな事を考える。

そのためには、公正に労働価値を評価するシステムが必要であると考えられるが、自営業からサラリーマンへの推移して、長い年月を経てきているが、いまだそのシステムは確立されていない。

個人的には、その労働内容から、安すぎる労働報酬、または、高過ぎる労働報酬は、公的機関から勧告を受けるような社会システムなどを考える。

この『資本論』で、その後、この事が語られるのか、定かでないが、労働の価値を問うた書を読んでみたいと思った。

労働力の価値は、流通に入る前に決まっている。

これは、ある意味、仕方のない事であるが、労働力の価値は、実際に就業してみなければ判断できないのだが、面接と経歴を鑑みて、就業前に決まる。

労働市場が流動化し、転職が当たり前の時代となっているとはいえ、人材転職会社に、その人の労働の価値を推し量る標準化された評価表が構築されている訳ではない。

労働の価値の真価を問われる前に、既に、その人の労働の価値が決まっているというのは、矛盾と言えば矛盾であろう。





資本の形成の歴史的過程

土地所有。

貨幣 の形態。
貨幣財産、商人資本、高利貸資本。

形態変化 WーGーW G-W-G

W(商品)-G(貨幣)-W(商品)
〜亜麻布を売り、その代金で聖書を購入する。〜

その特徴

貨幣が媒体。
売りをもって始まり、買いをもって終わる。
最終目標は、商品獲得による使用価値の取得であり、欲望の充足である。

G(貨幣)-W(商品)-G(貨幣)
〜100ポンドで綿花を買い、綿花を再び110ポンドで売る。〜

その特徴

買いをもって始まり、売りをもって終わる。

商品が媒体。
最終的に貨幣が貨幣に交換される。
無意味で無目的な操作にも見える。
量的な相違のみ存在する。

G-W-G’
G’=G+⊿G
⊿G=余剰価値
この運動が、価値を資本に転化する。

貨幣の資本への転化。

〜『資本論』を考察する補助線〜

ここの箇所は、『資本論1』の根幹の部分であると言ってよい。

『資本論1』では、全ての商品の利益率が同じであるという前提で記述されているが、当然、商品によって、利益率は、異なって当然であろう。

亜麻布とかの例のように、マルクスが活躍していた時代は、まだマニュファクチャ(手工業)全盛の時代で、大量生産、大量消費の時代は、まだ訪れていなかったのではないか。

労働力の消費過程は、同時に商品と剰余価値の生産過程である。 ー 305ページ

今なら、

W(工業製品)-G(貨幣)
R(労働力)+ I(人件費)+ K(経費)=W(工業製品)
⊿G(余剰価値) =G(貨幣)ーI(人件費)ーK(経費)

となるのではないか。

商品交換は、その純粋なる態容においては、等価の交換であって、したがって、価値を増すための手段ではない。

〜『資本論』を考察する補助線〜

マルクスは、商品の交換を等価なモノとして、そこから、余剰価値が生じる謎を設定し、その秘密を明らかにしようとしている。

至適感応価格というものを設定してみる。

マルクスが詳細に書く商品交換の場を微視的に見ると、なるほど、商品の買い手、売り手、双方が、お互い等価であるから売買が生じるように見える。

ここで、至適感応価格というものを設定してみる。

つまり、人が、この商品なら、大体、この価格と納得できる価格である。

ネット社会であるが、全ての商品が、そうたやすく比較出来る訳ではない。
例えば、あなたが郊外の家具店に入ったとしよう。
商品を見て、だいたい、これくらいなら払ってよいなあという価格の商品を、人は購入するのではなかろうか?
これを至適感応価格と呼ぶのである。

この至適感応価格よりも、実際の価格が低い場合、マルクスの言に習えば、”消費者が生産者を搾取している。”ことになる。

例えば、PCなど、その機能から見れば、今でも20万円しても、人は購入するのではなかろうか。
それを7万円前後で購入できるのであるから、この場合、”消費者が生産者を搾取している。”のである。

逆に、利益率が高い商品、人々が、これくらいなら購入してもよいなと思うような至適感応価格よりも高い商品を購入させられる場合、”生産者が消費者を搾取している。”のである。

 

以上、『資本論1』を読んで考えた事を、とりとめなく纏めてみました。

 






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