[ 書評 ] 『ジーキル博士とハイド氏』〜単なるホラーではなく、純文学であり、現代の寓話であり、神話である。〜


 

一体、何十年くらい積ん読本になっていたか、わからないが、世界近代文学読書案内の書籍まとめで紹介した木原武一氏の『要約世界文学全集1 (新潮文庫)』に魅力的に紹介されており、薄い本であったために、やっと手に取り、読んでみた。

木原武一氏の要約を読んだ時に既にわかっていたが、興味本位のセンセーショナルな小説ではなく、文学の香りを感じさせた小説であった。

物語はよく知られているが、あまり原作まで読まれてはいないであろう書であるが、ホラー的興味ではなく、一体、どんな話であろうと興味を持たれた方は薄い本でもあるし、手に取ってみては如何でしょう。

尚、この記事は、僕の記述した物語の概要や書評には、よく知られた話だとしても、内容に突っ込んでいるので、少なくとも5年以上は読まないという方、原作には興味はあるが、読むつもりはさらさらないという方以外は、読まない方がよいでしょう。

古い翻訳であったが、別段読みにくいということはなく、スラスラ読めました。

余談ですが、著者のロバート・ルイス スティーブンソンの晩年の生活を中島敦が『光と風と夢』に描いている。
未読ですが、名作と言われています。

『中島敦全集〈1〉 (ちくま文庫)』 所収。

ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)

<物語>





ジーキル博士の旧い友人である弁護士のアタスン氏は、彼から不思議な遺言状を預かっていた。
ジーキル博士が死亡若しくは失踪した場合には、その財産をハイドなる人物に譲渡することとされている。
が、アタスン氏は、そのハイドなる人物の事を知らなかった。

アタスン氏の遠い親戚で友人でもあるリチャード・エンフィールド氏との散歩中、彼から、曲がり角で少女と衝突しながら、子供を踏み付けにして、行ってしまおうとした男がいたという話を聞いた。
その男は、異様に厭な感じをさせる男であった。
それを見たエンフィールド氏らが非難すると、その男は、金で解決しようとした。
男が持って出て来た小切手には、新聞にもよく出る有名なジーキル博士のサインがあった。
男の名はハイドであった。

ハイド氏と偶然出くわしたアタスン氏のハイド氏への印象も、為体(えたい)の知れない厭な感じ、恐怖を感じさせるものであった。
アタスン氏は、そういう輩とジーキル博士が関係を持っている事を心配した。

それから1年後、ロンドン全市を震駭させるような殺人事件が起きた。

ある日、ジーキル博士宅の召使いのプールがジーキル博士の様子が変だとアタスン弁護士に告げに来た。
博士がいた部屋の異様な様子から、プールとアタスン弁護士が扉を斧で叩き割り、部屋内に入り込むと・・・・。

残されたアタスン氏宛てへのジーキル博士からの手紙と博士との共通の友人であるラニョン博士の手記を読むと、全く驚くべき事実が、そこには・・・・。

[書評]

ジーキル博士は、理性の下にもう一つの人格であるハイド氏の事を理解している。

所謂、精神疾患である解離障害のある患者さんでは、違う人格に乗り移られた際の事は、本人格は記憶にない。

一方、ジーキル博士は、昔から享楽性を楽しむ悪の人格が自分の中に巣くっているのを自覚しており、自身の社会的地位と普段の高邁な性格のため、その悪の人格を解き放つ機会がない事に苦しみ葛藤していた。

現代の寓話、神話としての『ジーキル博士とハイド氏』

久しく檻のなかに閉じこめられていたわたしの悪魔は、唸り声をあげながら飛びだして来た。(p107)

現代社会において、皆、会社ではビジネスマン、家に帰れば、夫や父もしくは妻や母の役割を担わされている。
もっと多くの役割を担わされいる人もいるであろう。





夫や妻や子供は、会社での妻や夫、父、母の姿を知らない。
そこに自分自身本来の性質が存在する。
その与えられている役回りや自分自身本来の性格が、随分、違っていたならば、そこに抑圧が生じる。

でも、そんな事は皆わきまえて生きている。

その抑圧が大きい者は、それこそ、精神的病に陥ったり、趣味や都会の夜の街で埋め合わせをしているのかも知れない。

ジーキル博士は、高貴な普段の生活の中で、真反対とも言える悪の性格を強く惹かれながらも、抑圧して生きている。

そして、その抑圧を解放させる方法を見付け、解放させてみた結果が、この『ジーキル博士とハイド氏』の物語である。

現代人は、古事記の話やギリシャ神話などの古き神話なども聞いても、話としては面白いが、あまりリアルな感じは受けないであろう。

しかし、この『ジーキル博士とハイド氏』は、僕らの普段の日常会話で、「そりゃ、まるでジキル博士とハイド氏みたいやぁ。」てな調子で現れないであろうか。

この『ジーキル博士とハイド氏』は、19世紀のロンドンでのお話である。
時代は、すでに近代に入っている。

そうして、この『ジーキル博士とハイド氏』は、現代の我々の一つの寓話、神話として読めないであろうか。

少なくとも、単なるスリラーやホラー小説を期待している向きには肩透かしを食らうであろう。





 

また、高邁な性格の持ち主のジーキル博士が、影の人格ハイド氏の悪行への抑制が利かなくなり、ハイド氏への変身を止めよう、止めようとしながらも、その誘惑に勝てない様子の描写は、さながら、依存症患者の様子を描写しているようでもあった。

 

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