人それぞれ、エネルギー源がある。
それを糧にして、1日の活力源とするような。
幾人かの人にとっては、それは、理想の自分へ近づこうという邁進力であったりする。
一方、理想の自分=現在の自分 という人達がいる。
若しくは、理想の自分というものを持たない人達である。
いわゆる、市井の人達である。
実際問題、現実の市井の人達も、生活上の事柄で悩んだりするだろう。
が、小説に描かれる市井の人達は、とても逞しくタフである。
太った豚よりも、痩せたソクラテスでいたい。というような諺がある。
今、日本で闊歩している市井の人達というのは、単なる痩せたソクラテスで、タフガイでも何でもない。
トーマス・マンは、自身、そうであったのであろう。
よく、小説に、「芸術家と市井の人達の間」「芸術家から見た市井の人達への憧憬」を描いており、子供の頃から、皆と違ったユニークな存在であり、頭も良かった僕は、そんなマンの分身に、自身を重ね合わせていた。
もう、そんなことする必要も120%なく、相変わらず、「そうでありたい自分」は存在するが、「ああなりたいという人」は、おらず、くだらぬ些事にエネルギーを費やしている気がする。
実は内面は色々感じているが、他人から見れば何も感じていないような存在になればいいのだろうか?
終わりにしてしまえばいいのだろうか?
まったく甲斐のない、くだらぬ世の中である。
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